~札幌潮陵倶楽部の成り立ち~

札幌潮陵クラブ創立時、以降を振り返って 顧問 岩木雅嗣(51期)

 昭和50年富士屋ホテルに30余名の同級生が集まり札幌に小樽の本部と独立した同窓会を作ろうという話がありました。大谷先輩・53期の中嶋・田 村さんが中心になり準備のため集会を51年東急ホテルで開催したところ、50余名集まりました。最終準備の3回目はすみれホテルで70余名でした。第1回 総会を51期でやってほしいと頼まれたので、私が代表幹事となり、同期の仲間と会則の原案を作り52年2月アカシアホテルで、240名集める事が出来まし た。これも札幌潮陵クラブが縦のつながりの仲立の役割を果たし樽中潮陵魂を先輩から後輩へと受け継ぐ場として必要なのです。

 

 初代会長は19期の札幌医大・高山担三教授でした。各期幹事の協力により、幸先の良いスタートになりました。今日までの最高参加者は第10回「(昭和61年)の380名で、会場に入りきれずロビーをも使用し、嬉しい反面大変だったことを憶えています。

 

 副会長になって間もなくの頃、初代高山会長が退任することになり、大谷副会長に頼まれ二人で河邨教授とパークホテルで会い次期会長をお願いしたところ、少し考えさせてほしいとの事でしたが、後日了解されこちらの意も汲んでいただき、早く決まり大変良かったと思いました。

 

  長い間副会長をやっていて重い責任を感じたのは創立90周年の寄付集めの責任者に指名された時で、小樽の村山会長(スハラ食品社長)はじめ80周年の時の 募金資料を持って来てくれた河辺石油の社長からも直接頼まれましたので、募金事務局を岩木㈱内に置き各期の幹事から案内状の送り先を提出してもらい名簿作 成しました。事務局に毛筆の達者なものがおりましたので、封筒の宛名を書かせて出しました。役員・幹事の協力により法人目標200万円を達成し責任を果た してホッとしました。

 

 100周年の時には和光の田中副会長(当時)にお願いしたところ快く引き受けていただき、河邨元会長宮坂会長(当時)はじめ役員の方々の協力と歴代事務局がしっかりしていて、幹事の皆さんも頑張ってくれたおかげと感謝しております。

 

 同志と共に誇りを持って母校を愛してきたことが人生の1ページに残せる事が出来れば、いいかなと思っております。

​札幌潮陵クラブ設立時を省みて 故・川上豊(53期)

札幌潮陵クラブ第40回の案内が送付されてきて、あれから40年もたったのかと改めて自分の年齢がいかに後期高齢者に到達しその真っ只中にいることを実感し 当クラブの設立当時を思い出し懐かしく思っている此の頃です。
(以下の文章は2014年当時に書かれたものです)
1975年の初夏の頃職場に電話があり「私は小樽潮陵33期の大谷鉄弥といいます。わたしの 同期の者と一度会って一杯やりたい」ということですので元来酒好き、二つ返事でOKしました。そしてまもなく指定された店で中島君とその趣旨を聞きました。大谷先輩曰く『先般小樽で潮陵クラブ総会があり宴席やその後の席で本州各地や北海道でも各地に潮陵クラブが設立されてきたが札幌にはない話もないようだ。との話題で持ちきりだった』とのことでした。その後何度か同期の連中(33期)と飲んでる席に地崎宇三郎代議士が同席することがあり、話を進めるには後輩の期を選んでその期を軸に進めるのが良いのではないかと話が進み、早速潮陵クラブの名簿を持ち寄りその期の選定に入った。5年後輩では近すぎる、10年後輩ではどうか? 15年では? と議論するうちに年齢的にも20年後輩なら35〜・6歳ごろで丁度良いのではないかとなり、区切りのいいところで20年後輩の53期となったところに、地崎先輩が「俺が非常勤社外取締役をやっている建設省所管の会社に勤めている川上と言うのが53期にいるから大谷君と白崎君とで使者としていって話が何とか前にすすめように骨を折ってくれ」といわれお呼びたてした旨のお話が両先輩からあり熟慮の結果改めてご返事しますと答えたが、それからが激動の毎日でした。早速同期の故中嶋輝男君・上埜晴司君等と相談し、特に中嶋君は商売がお茶の販売と言う事もあり粉骨砕身まったく頭が下がるほど熱心に走り回り、何とか 来年には滑り込めるとの感触を得て白崎大谷両先輩に経過を報告し、53期が何とか重責を担う旨を伝え本格的に動き始めました。同期の中島君を頭に織田君田村 君等手分けして日に日に先輩後輩に食い込みあらゆる手を使い秋の気配の頃には形がボヤーっとみえてきました。
その頃地崎、白崎、大谷の3先輩より誘われ同期の者数人と一杯やる機会があり慰労されましたその席で旗揚げの時、会長がいなければ形にならないと言う声が誰と言うこともなく自然に地崎さんにお願いしようとの声 が出た途端に地崎先輩が発言を求め「俺は母校を卒業したことを誇りに思っている。ものすごく愛着もあるその母校を足場にして政治活動をすることなどただの一 度も考えたことなどない、我も我もではなくて会員の総意で決めるべきだ」と明確に辞退されました。
年が明けた1976年1月23日50数名が参加して道庁別館の裏にあったすみれホテルで札幌潮陵クラブ創設の会が開催され、この会を第一回として一年先まで十分な時間があるからもっともっと盛り上がったクラブにな るように参加者全員で誓いあったものでした。全員の胸の内は我々が真剣に動けばこんなもんじゃない。この次はこの10倍いやそれ以上にして見せると、潮陵健児の血が騒いだ瞬間でした。そして翌年の1977年2月18日ホテルアカシヤでの総会には数百人の参加を頂き我が53期も会場の一角の10テーブルを占め 100人を超える大集団となり異彩を放ちました。その夜二次会に移動する道すがら中島君と今日の大成功の話をした時、彼の目が潤んでいました。精一杯やり遂げ た潮陵男のすがすがしい顔でした。その時僕はこのクラブはますます発展することを確信しました。
そして38回目を迎えた現在、宮坂会長夫妻を含めすばらしい先輩 に恵まれ、又当クラブの事務局と言う非常に煩雑な仕事を長年に亙り黙々とこなしてくれている65期青木君、今のクラブに何かと助言してくれており、53期が入 学した時の応援団長であった岩木先輩等々列挙した諸兄が愛して止まない札幌潮陵クラブは揺ぎ無く永遠です。


新役員よりご挨拶

会長 青木 洋一(65期)

令和3年、第46回総会・懇親会もコロナ禍で2年連続の中止を余儀なくされました。今年は会長の改選期にもなっており、初めての文書によるものとなりました。承認176名、一任26名という結果で、第7代目の会長職をお引き受けさせていただくことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。コロナ禍で先が全く見通せない中で、札幌潮陵クラブの活動も完全にストップしております。そこで少しでも同窓の匂いを嗅いでいただきたく、ホームページの更新に着手いたします。紙面を拡充して、読み応えのある記事をタイムリーに掲載するとともに、設立時からの歴史もこれから振り返る予定です。ホームページを見れば札幌潮陵クラブの全てがわかる!!と言っていただける紙面づくりにこれから少々お時間をいただいて順次更新してまいります。どうぞお楽しみにご覧くださいませ。『札幌潮陵クラブ』と検索をお願いします。会員様のご意見や投稿もお待ちしております。どしどしお寄せくださいませ。

もうひとつ。今回で19号になる「潮だより」が、2022年発行で20号の節目を迎えます。毎回事務局長の柴田君が編集長になって企画・構成を担当してまいりました。20号は記念号として更なる紙面の充実を図りお届けしたいと思います。加えて潮だよりに掲載されたアンケートなどもホームページに記載する予定です。同期の方や同窓の方で案内状が来ない方がおられましたら、どうぞ事務局までご一報いただきますようお願いいたします。一人でも多くの同窓生が集える事が出来るよう微力を尽くします。これか2年間ご指導、ご協力をお願いいたします。(2021年8月)

 

副会長 保坂 政雄(68期)

いつからであろうか。歳とるごとに身体が老いていく。気持ちは、若い時の記憶が蘇っていく。札幌潮陵クラブの同窓会は、恩師、先輩、同期、後輩と人と人の『絆』があります。

老若男女が一堂に会し、声高らかに『ああ、潮陵』を歌うことができる潮陵です。

母校に育てられた幸せに感謝しながら、皆様と共に歌いたいです、遊びたいです。

気概を持って、これからの時代・人生を楽しく、可笑しく、面白く、やって行きませんか。

そう言う人達と共に行動していきますので、宜しくお願い致します。


副会長 八和田 勝(73期)

この度、青木会長から「潮だより」の広告担当と指名され、副会長を拝命しました。よろしくお願い致します。

当クラブの運営は会員皆様の会費と広告収入で成り立っています。青木会長の「会員数の増強と名簿の拡充」の方針のもと運営の一端を担うこととなり責任を持って行動したいと思います。

近隣や部活動の先輩と後輩、同期の仲間が集う「学べて、感謝し、面白い」魅力ある同窓会を目指したいと考えます。

微力ながら、当クラブの繁栄に努力して参りますので皆様の更なるご理解とご協力をお願い申し上げます。

事務局長 柴田 剛(71期)

事務局長を拝命いたしました71期の柴田 剛と申します。これまでは万能人・青木さんの後姿を見て当会と事務局の仕事について知見を広げて参りました。この度青木さんが会長就任となり、私にバトンタッチとなりました。母校の先輩後輩をどう結び付けていくか、年に1度の総会懇親会をいかに楽しく盛り上げていくか、会報「潮だより」にどんな情報を載せていくか、最近見ることのなくなった「縁の下の力持ち」になって頑張っていきたいと思います。時には母校へのエールを送る意味で旗振り役になることも辞しません。実際、応援OB団では腰痛を堪えてオレンジの重い団旗を振っております(笑)

どうぞよろしくお願いいたします。