光陰矢のごとし

44期 井上 俊彌

早いもので第2次世界大戦真っ只中の昭和19年旧制小樽中学校に入学、その後学区制改革などで混乱した時代でしたが、小樽高等学校を無事卒業以来70数年。我々は44期、誰がつけたか44期をもじり「獅子の会」と命名。私の父は18期の卒業で、「出花会」(鬼も十八番茶も出花)と言っていたそうだ。この年になると毎年1人、2人と先立っていく友人を見送る度に故人の若かりし頃の姿、顔を思い出す。

学生時代の70数年前、まだ中学生だったため幸か不幸か兵役には行かず、代わりに1年間に4ケ月間援農(農家の手伝い)に出向くことになる。参加者は40名くらいいたのではないかと思う。私の行き先は仁木町。出発前に寝具、身の回り品は母親が用意してくれ自宅からリヤカーで小樽駅まで運び、駅の荷物取扱場から仁木まで送ってくれた。私は小樽駅から汽車に乗り仁木に向かった。到着後は駅前で整列し先生の訓示、その後援農先の立花さんの紹介がありすぐに同行した。当時農家の働き盛りの男性は殆どが兵役に駆り出され、労働力は銃後を守る年寄りと女性、子供だけというくらい労働力の足りない時代だった。援農先の家族構成は立花さん老夫婦と子供二人、長男の嫁さんと子供1人、二男の嫁さんと子供1人の8人家族だった。

最初は小柄な私一人だったのできっと心配したのではないかと思ったが、数日後当時野球部のキャッチャーをしていた体格のガッチリした中西君が合流し2名になり安心したのではないかと思う。仕事は畑作、水田、果物等あらゆるものを作っていたため雨の日も晴れの日も休む暇はなかった。リンゴの袋掛け、田植え、芋や南瓜の植え付け、馬の世話など何でもやった。平地に配属された仲間はほとんどが水田作業で雨が降れば休んでいた。リンゴの袋掛けの時期には女子高生が大勢来て歌を歌いながら楽しく作業をしているのを遠くで聞いていた。朝は早かったが日中いっぱい仕事しているわけではなく休み休みのためあまり疲れたという印象はなかった。夕方4時か5時頃には寄宿先には戻っていた。夜は時々教科書を見る程度であまり勉強をしたという記憶はない。ある日、立花の親父さんが「今日は魚を食べさせる」といって近くの川で川上から魚を追ってきて「よしっ!」という合図で網をあげると中にはどじょう、鮒、かじか、うぐいなどの小魚が沢山入っていた。「今晩は魚のごちそうだ」と親父さんは満面だったが鍋の蓋を開けたとたん先ほどまで元気に泳いでいた魚たちの茹で上がったごちゃまぜの姿を見て急に食べる気がしなくなった…。

が、食べる物の少ない時代、特に米の不足というよりも、何もないといった方が適切かも知れない。こんな時代に援農先の農家では腹いっぱい米の飯が食べられたというのは幸せだったのかもしれない。

5月から8月後半までいた仁木では両親あてに近況報告を兼ね2回手紙を書いた。書いた手紙を2キロ先の駅前の郵便局に行くため親父さんの許可をもらい簡単な鞍を付け馬に乗って行った。が、途中で道路に木の枝が出ていたため折った反動で馬の目の前をかすめたため驚いて走りだし落馬しそうになり必死になって馬の首にしがみついたことを思い出す。

8月のある日、援農も後半で、近くの小高い所にあった見晴らしのいい火の見櫓からアメリカの艦載機が余市の水産試験場らしきところを急降下して攻撃をしていた。「どこから飛んできたのだろうか」と不思議な思いで眺めていた。その数日後の8月15日、終戦の玉音放送を聞いた。農家のラジオは雑音が入りよく聞き取れずにいたが、その後担任の先生が回ってきて「日本が無条件降伏をした」との報を受けたが、一瞬信じられなかった。

終戦後は10月初めから1か月の間、空知の秩父別の農家に移ったがその時は確か5名で夜は一部屋で雑魚寝だった。作業の内容は稲刈り作業と刈った稲束を束ね、それを干すための稲架(はさ)を作りそれに稲束をかける仕事だった。朝起きてみると我々が立てた稲架だけが倒れてやり直すのに大変な目にあった。

この時期の中学生は男女問わず、すべてが1か月から4か月間援農か軍需工場尾で働かされた。その間先生が回ってきて多少の勉強は教えていた。援農以外の工場で働いていた学生の話を聞くと食事は米の飯はほとんどなく、麦飯、いも、南瓜等がほとんどだったそうだ。魚は鰊のにおいがついたイキの悪いものが普通で、魚だけは新鮮なものを食べていた小樽っ子には食べられなかったそうだ。

援農の期間が終わり小樽の我が家に戻る途中、街角で銃を持ってジープに乗ったアメリカの進駐軍を見かけた時、日本の敗戦を実感した。当時の食糧不足は言語を絶する状態で、秋の収穫時期のじゃがいも、かぼちゃは上等な方、かぼちゃは手のひらが黄色くなるほど食べたものである。春のニシンの時期になると各家庭では魚の木箱ごと買い、主食代わりに空腹を満たすため7匹、8匹食べるのは普通だった。家の中で焼くと煙で充満するため、外に七輪を持ちだし焼いていた。その為夕方の5時、6時ころには小樽の街中がどこも青く霞がかかった様な情景だったのを今でも思い出す。(ここまで「潮だより」掲載分)

 

父は銀行員だったが日曜日には食べ盛りの子供のために、近隣の農家に行き持参した衣類、調度品などで食料品を調達するなど苦労していた様だった。

先日、或るゴルフ場で一羽の親鳥が近くの木の祠で鳴いている雛鳥の元に餌を運ぶ姿を見て、いまは亡き当時の父親の苦労していた頃の姿が思い浮かんだ。青春時代にこの様な事情の割には元気で卒寿、白寿、百寿を目指し頑張っている先輩を見ると元気付けられる。

さて、大学を卒業後小樽に本社のある会社に入社、3年後に東京に転勤となり小樽を離れたが、義兄の観光土産品卸の仕事を手伝うことになり、7年ぶりに北海道に戻ってきた、東京オリンピックが開催される前の年の38年だった。

折しも北海道観光が急激に伸び始め、本州方面より農業関係の観光団、修学旅行、一般の観光客など大型バスが列を連ね周遊観光を楽しみ、お土産品には木彫りの熊、人形、壁掛け等品物があれば何でも売れたという時代で、これがきっかけとなり約60年近くこの業界で仕事をしている。

観光産業の経済効果というのは、それぞれの地域の文化を再発見し、創造し、交流人口を増大させることにより、あらゆる地場産業に大きな波及効果をもたらし、更に所得と雇用を拡大させ、地域経済を活性化するための先導役として大きな役割を果たしていると言われている。

20年ほど前になるが、アメリカで起きた9,11テロの事件直後、アメリカの基地がある沖縄への観光客がばったり途絶えたことがあった。その窮状を見て国内各地の観光関連業者が沖縄観光を元気付けようと一斉に沖縄を訪問した折、地域の観光関係の方より、観光客が途絶えたとたん前日まで1日2万、3万個と売れていた卵が全く売れなくなった、又、それまで観光とは縁が無いと思われていたガソリンスタンド、クリーニング、スーパー、一般の商店まで影響が出たことで観光産業が如何に地域に貢献していたかという事が一般市民にも理解してもらえるようになったという事で9,11のテロ事件は沖縄観光にとっては不幸中の幸いだったという事でした。

戦前の我が故郷は、全道の商業の要としての役割を持つ都市として栄え、小樽運河から山側に向かって緩やかに続く坂道がその昔「北のウオール街」と呼ばれかっての金融街だった、戦前の樺太と交流があった頃は港と運河に近い入船町、堺町、色内町界隈は船舶用の石造りの倉庫が建ち並び、人は絶えることなく賑わい、正月には馬橇に初荷の商品を山積みにして威勢よく一斗缶をガンガン叩きながら過ぎ行く情景が目の前に浮かんでくる。当時は現在の様な観光地とは縁遠い街で、戦前の運河は我々にとっては近くて格好の海水浴場の一つだった。水は茶色く濁ってはいたが3,4メーターくらいは見通しがきき、そこには通称ばば貝?と呼ばれていたホタテの様な貝(腹痛を起こすと言われ食べなかった)や、ホヤが沢山いたのが嘘のようである。

その後生活環境の変化などにより運河はメタンガスが発生するほどに汚染され厄介者とされていたが、昭和40年代後半から始まった運河論争の結果、折衷案で現在の様な形に落ち着き、それを支えてきた多くの市民、関係者の知恵と努力により全国的に話題となり、今は北海道観光のメッカとして北海道への観光客誘致に大きく貢献する街になった。現在は運河沿いには古い倉庫を利用した観光施設、ホテル、土産店、飲食店が軒を連ねリピーターも増加年間700万人以上の観光客を迎える北海道有数の観光地として発展している。

我々が幼いころは花園公園通りから妙見川界隈はキャバレー、バー等の飲食店がひしめきあい、夜は歓楽街として賑わったものだが残念ながら現在は昼間の人口は増えても、陽が落ちる頃には閑散としている。

近郊には祝津海岸からオタモイ、積丹にかけての景観は世界遺産に登録された知床に勝るとも劣らない景勝地がある。特にオタモイ海岸は私の生まれた昭和6年に小樽で割烹を経営されていた加藤秋太郎という方が龍宮閣をはじめ弁天食堂、遊園地を作り1日数千人が遊びに来ていたという事ですが、私も何度か両親に連れられ、龍宮閣をバックに母親に抱かれた写真を見るたび懐かしく思い出され、小樽観光発展のためにも一日も早い再開を願っている一人です。

又日帰り地域として余市、仁木にかけてはニッカウヰスキー、ワイン、フルーツ。高島、祝津、忍路にかけての新鮮な海鮮料理、そしてゴルフ、フィッシング、スキーなどの体験型スポーツ、特にスキーは小樽が北海道の発祥の地と言われており、かってはオリンピックの名選手を多く輩出した都市である。 近郊開発、体験型観光推進等によりかっての「夜の小樽」の復活にも貢献できるではないかと思う。子供の頃大変な思いで体験したことが走馬灯のように次から次へと浮かんでくる今日この頃です。

しかし残念ながら昨今の新型コロナウイルス感染拡大により世界の人々の往来がストップ、どこの観光地も厳しい環境の中耐え忍んで頑張っているが、一日も早い回復を願っている。

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夜の小樽の復活を願い作詞してみました

「想い出の小樽」

 

粉雪光る シュプールに 世界をかける

若人の 明日を夢見た オリンピック

皆で滑った  天狗の風が 

頬をなでて 過ぎていく

移り香残る ロマンスの

小樽は 小樽は 想い出の街

 

忍路、高島、祝津の海に ニシンの群来で

大漁に沸いた  日本海

遥かに聞こえる ソーラン節に

やん衆が騒ぐ 妙見沿いも

今は昔の 面影消えて

小樽は 小樽は 懐かしの街

 

色内、堺、入船の 栄華に沸いた

ウオール街 商人(あきんど)達の威勢良さ

馬橇が走る 運河のほとり

霧氷にかすむ ガス灯うつり

将来(明日)はそぞろ歩きの 人で湧く

小樽は 小樽は 夢の街